高松御題/温室


 高松を見るとき、やわらかなあたたかなイメージが付いてまわるのは、きっと僕の中に蓄積された高松との時間の大半が、この巨大なガラスケースを思わせる熱帯の植物園にあるからだろう。
 マッドサイエンティストと評される高松の専門は、誤解されがちだが、実のところバイオである。それも植物が主題である。医師資格に加え、僕が機械の道を選んだため、そちらの課程まで修めたら、医療技術局に配属されただけのことで、やはり研究の多くは、人体より、その根源である、遺伝子や塩基配列が主であった。バイオには元になるものの培養や育成が欠かせない。そういった理由から、高松は研究用に幾つかの温室を持っており、余程のことがない限りは、日に幾度となく足を運んでいた。
 子どものころ、僕はこの温室が大好きだった。
 高松は僕をとても愛してくれていて、僕が望めばいつでも側にいてくれたけれど、高松の研究は毎日続けることがとても重要で、一日だって休めるものじゃないから、僕が我儘を言うだけ、高松の日常生活のための時間が削られていくことに気が付いた時から、僕は、高松の要らない時間を拾うことを覚えた。もっとも、そんなことはすぐに高松にばれてしまって、そんなことは考えなくて良いのですよ、と笑われたのだけれど。それでも、子どもの頃、僕の世界はとても狭くて、その世界のすべては高松でできていたから、僕は高松に嫌われたくなくて、なるべく邪魔をしないように努めていたものだった。
 そんな時に、高松が手を引いてくれたのが、あのガラスの空間だった。
 高松は研究施設に僕を連れて行くことは絶対にしなかった。当然のことだ。一般人の生活範囲内でも、目を離せないのが当たり前の子どもを、大人ですら節度と注意が要求される研究所内に連れて行くはずがない。だから高松は行かなければならなくなると、大げさなくらい泣きながら、おばさまに頼んで出かけるのが常だった。
 だから僕はいつでも元気に高松を送り出した。通う道のりに、今日は何をして遊ぼうかとか、どんなおやつが出るのかとか、好きなことばかりを山ほど並べて、別れ際には、お仕事頑張ってねと手を振りながら。実際、おばさまと会えるのも、シンちゃんと遊べるのも、メイドたちがふるまってくれるお菓子やお茶も、とても楽しみだった。
 それでも、扉が開くたびに高松を見てしまう僕を、きっと高松は知っていたのだろう。ある日僕の手を優しく引いた高松は、穏やかな笑みを浮かべたまま、この温室へと向かったのだった。
 扉までガラスでできたその温室は、とても研究用とは思えないような手入れの行き届いたもので、磨きこまれた細い支柱に、汚れに遮られることなく降り積もるやわらかな光がきらきらと、とても美しい空間だった。整然と区画ごとに植えられている植物には、確かに実験を示すプレートが与えられていたけれど、それでも十分に華やかで、目を楽しませるに足るものだった。
「ここはね、特別な温室なんですよ」
 高松は言った。
「ここには、改良された植物がほとんどないんです。原生から、逆にルーツを辿るために集められた植物ばかりなんですよ。ガラスで区切られているから見た目にはわかりませんが、採集地ごとに分かれていて、決して他の地域のものとは混ざり合わないようにしてあるんです。ここは団内の環境にあるのでそのまま入りますが、この先からは、区域の間ごとに設けられた部屋で専用服を着て、花粉や微生物を落としてからじゃないと進めないんです」
 ほら、あそこがそうですよ、と指し示された先には、確かに目立たないように、けれどしっかりとした外観の、白い施設が見えた。この温室から続く扉には錠と電子パネルが付いており、認証がなければ開くこともできないようだった。
 そんな僕の考えを読んだように、もっとも、と高松が続ける。
「今は、もう私しか通る人間はいませんが」
 続ける高松の表情は流れる髪に隠れて見えなかった。
 反射的に握った繋いだ指先に視線を落とした高松は、内緒話でもするように声をひそめて笑った。
「実はここ、もう使われていないんです。それで私が総帥にお願いして個人的に使わせてもらわせているのですが、そういった理由から、あんまり危ない植物はないんです。それに、この間、毒性の強いものは避けてしまいましたので、ここにはきれいな花や、おいしい実をつけるものしか残っていません」
 だからですね、高松は僕の手に銀に光る小さな鍵を握らせてくれた。
「今度から、さみしくおなりになるようでしたら、こちらにいらしてください。私は毎日ここに来ますし、ここは私専用の温室ですから、誰が訪れることもありません。まだお小さくていらっしゃいますから、奥にご案内申しあげることはできませんが、ここまでなら自由にお入りになっていただけます。これは、そのための鍵です」
 ぎゅっと握った鍵には、なくさないようにか、ちりんとなる鈴がひとつ、光っていた。僕は鍵を握り締めたまま高松を見上げた。高松はただ笑っていた。
 それ以来、僕は時間を見ては、この温室に訪れるようになった。温室に行けば、必ず高松が来てくれて、僕と一緒に記録をとったり、手入れをしたりしてくれた。もちろん、高松は奥にも行かなくちゃいけないから、そういう時は、僕は一人最初の部屋で待たされることになるのだけれど、透明な温室はよく高松の姿を見せてくれて、余程のことがない限り、僕は高松の姿を見失うことはなかった。たまに地下や目の届かない所に行くことがあっても、あらかじめ高松はそうと断っていくから、僕はちっとも不安に感じずに、咲き誇る花や枯れて実をつくる木々を眺めて過ごしていた。並ぶプレートは良い暇潰しで、僕は自然と日々変化する様子ごと、それらを覚えていった。
 高松はそれをいたく喜んで、さすがはグンマさま!!と鼻血を流しながら賞賛して、すでに研究として発表されているからだろう、僕が望むまま観察記録を読ませてくれた。含めて立ち入ることの許されない奥のものまで。それはとても楽しい読み物だった。流れるような筆跡で、連綿と遡られる命の系譜。それとは別に、繋がれて下る日々の系図。まるで温室の日記のように。
 高松はこの温室の持ち主であった研究者の助手だったのだろう。初期の記録から、高松の見慣れた筆使いが、研究を取り仕切っていた人物の流麗な筆跡と並んである。やがてそれが分業を始め、ある年を境に、僅かにあった他の助手たちの痕跡ごと消えたかと思うと、それきり高松だけとなった。その時から、この温室は高松一人のものなのだろう。
 一人ぼっちの温室に割り込むように、僕は記録を書き始めた。それに高松は少し驚いて、けれどざっと目を通すと、補足程度に書き足しただけで、これからはグンマ様が書いてください、と言って僕にノートを渡した。
 それ以来、温室の日記は、僕の幼稚な字に埋められることになった。その時こそ書き加えられていた高松の筆は、いつしか消え始め、ついには見えなくなった。そして僕はこの温室で知らない植物がないまでになっていた。
 そのとき僕は気がついた。きっと高松はすでに気が付いているのだろう。
 この温室が、静かに死に向かっていることを。
 そうして、未だ高松しか踏み入る者のいない世界で、僕が高松を見失うことなくいられたのは、このためだったのかと思い至る。おおむね熱帯の植物で埋められた地上の温室で、こんなにも見通しが良いのはどうしてなのだろうと感じていた、その理由がそれだった。
 人間と一緒だ。
 僕はいつか読んだ書物にあった、遺伝子のコラムを思い出していた。古代、濃い血を残すために盛んに行われた近親婚の結果、奇形や異状をきたした遺伝子の話。総じて寿命に短く、繁殖に衰えた、劣化コピーのような遺伝子ができあがるらしい。反対に、遠く離れた場所に生まれた者同士や、別の人種との交わりの方が、はるかに高い能力を持った遺伝子を生むというから、皮肉なものだ。
 命とは、自分でないものを取り入れなければ、残してゆくことができないのだ。
 閉じられた人工の空間で、僅か数株の植物は、限られた遺伝子情報を使いまわし、磨耗させるだけで、進化することなく滅んでゆく。僕が許された世界では、木々も花々も咲き誇っているというのに、ガラス一枚隔てた世界では、滅びが始まっているのだ。
 いつか、要らなくなった温室の、元の持ち主は誰だったのかと聞いたことがあった。僕はものを知っている年になっていた。目に見えて閑散とした温室の中で、遮られることのない高松が、立ったまま枯れる向日葵のように首だけを僕に落として、
「あなたの、お父上ですよ」
と、言った。視線は僕に落とされていたはずなのに、隔てたガラスに弾かれて表情は知れなかった。
 抱えたノートをただ埋めた、あの日からもう何年がたったのだろう。
 僕は今もこの温室に訪れる。何冊目かわからなくなったノートに全体を書き付けて、気になったことを重点的に足してゆく。それが済んでから高松のものを順番に読んでゆく。
 結局、僕は成長してからも、一つ目の温室から奥に行くことはなかった。それはとても残酷な理由からだ。
 ぱらりとめくるノートの中で、また絶えた種がその名を死なす。
 全部死んでしまったら、新しい種を蒔こう。
 僕は今も滅びに向かう温室に通っては、三十年分の思いを焼き払う日を待っている。


20051204 / 戻る