高松御題/贖罪


 高松は、研究に熱中すると、何も見えなくなってしまう。
 とりあえず周りが見えなくなる。時間どころか、昼も夜もなくなる。天気なんて問題外だ。雷が鳴ろうが、眼魔砲が放たれようが、研究を妨げなければ、まず気がつかない。つまり、物も見えなくなる。研究に使うもの以外は、たとえ部屋であれ、改装工事が行われようと気が付かないだろう。経過観察中のシャーレなら、五ミリずれただけでも気が付くのに関わらず。
 もちろん人など目に入っていない。共同研究ならともかく、高松は大概が、一人で研究、開発を行うという非常っぷりだ。おまけに研究中の高松に近付こうなどと思う命知らずもまずいない。拍車はかかれど、歯止めはまったく、望めなかった。
 それでも、高松は、僕のことだけは、忘れないでいてくれた。高松が、研究でなく気が付くのは、僕だけだった。子どもの頃は、それが嬉しかった。研究が一番の、高松の研究より大事に置かれているということがとても誇らしかった。今となっては、どうしようもない思い上がりに過ぎなかったのだけれど。
 あれは僕が高松の研究室で寝入ってしまった夜のことだった。僕はふと目を覚まして、薄暗い室内を見た。明るいのは高松の使っているパソコンの画面だけで、きっと高松が、寝入ってしまった僕に気を使って、室内灯を落としたのだろうと思った。光を放つ画面の前で、高松は真剣に何かのデータを見ているようだった。
 寝起きのぼんやりした頭で僕は高松を見ていた。ぼんやりと、本当にぼんやりとしていたのだと思う。僕は、高松にかかるまで、高松に迫っていた黒い影に、まるきり気が付いていなかったのだから。
 半分寝ていたのかもしれない。それともその人影が良く見知った人間のものだったからかもしれない。ぎくりともせずに僕はその人影を見ていた。
 人影は静かに見下ろしていた。画面のデータでもなく、手元に散らばる資料でもなく、高松を。揺るがない瞳にかかる睫毛を、通った鼻梁を、緩く結ばれた唇を、首筋にかかる黒髪を、そこから覗く首筋のわずかな肌を。それだけを、ただ。
 データを検分している高松と、高松を見詰めている人影と、それを眺めている僕の目の前で、人影はゆっくりと高松の髪に指を落としてその髪に触れた。ゆっくりと触れたその指で、髪を一房取ると、感触を確かめるように指の腹でなぞり、あらわになったうなじに唇を寄せ、いとおしむように口付けた。
 瞳孔まで、開いた気がした。
 見開いた目は、明るい天上と、眩しい太陽の光と、影の消えた室内を映し出した。
「グンマ様?」
 お目覚めですか、と笑みを浮かべた高松が僕を振り返った。僕は高松を見て、それから明るくなった部屋を見て、また高松を見た。高松の研究室は、いつもどおり散らかっていて、いつもどおり片付いていた。高松もいつもどおり鼻血を出しそうな勢いで「寝起きのご様子も愛らしいです、グンマ様!」と一人興奮して悶えていた。悶える高松の乱れた髪の狭間からは、判で押したかのようにはっきりと赤い痣が覗いて見えた。
 あれから時々、僕はそっと高松に近付いてみる。けれど高松は、いつだって、さほども寄らないうちに僕に気が付いてしまう。それは決して、喜ばしいことではないのだ。
 僕はきっと、生涯あんなふうに高松に触れることはできない。
 無条件の許容は拒絶と同義だ。絶対の認識は警戒に等しい。僕は高松の空気にはなれない。世界にもなれない。ただ強く思い知るだけだ。
 僕は生まれたその時から、高松にとっての異物なのだと。


20060518 / 戻る