睦言


 ルーザー、ルーザー、ルーザー、
 寝ても覚めても口にのぼるその名前。およそこの世の植物以外に興味を持てない人間が、こんなにも一人の人間だけを好きでいるのなら、それはまったく唯一神に違いない。
「君がそんなにルーザーを好きなのは、一体全体どうしてだっていうんだい?」
 黒く艶のある黒髪を掬った彼の人の兄は、呆れ果てて深い深い溜め息をついた。
「どうしてって・・・そんなことはわかりきったことじゃありませんか」
 白く象牙の肌を持った少年は、髪をつたい皮膚へと流れてゆく悪戯な指にもまるで頓着せずに答えた。
「君の才能を見出したことかい。もしくはそれを伸ばす援助をしたことか。それとも逆にルーザーの才能に見入られたとか。いっそ、あの氷のように冴えた容貌かな」
「そんなもの」
 声変わりを迎えたばかりの艶のある低温で転がるような笑みを漏らす。
「私の才能など私が知っていれば良いことですし、伸ばす援助も結局はあなたの懐からでしょう。才能など誰もが某かで持っていますよ。容貌ならあなた方兄弟にさしたる違いもない」
「君は本当に、人など必要なだけ見分けがつけば良いと思っているだろう」
「人聞きの悪いことを言わないでください。私はこれでも人が好きなんですよ。人が私を嫌うんです。嫌われているとわかっていながら見分けてあげる道理はないでしょう? 私は誰のことも嫌いになりたくはないんですから」
 笑う言葉は本当で、少年は確かに人が好きなのだろうと感じさせた。けれどそれはとても神様のような愛し方で、例えるなら人が動植物を愛する気持ちに近かった。
「なるほど、するとそれは答えなのだね」
「・・・あなたはやはり、人の上に立つ人だ」
 兄が撫でると少年は笑んだ。触れる肌は滑らかであっても柔らかくはない。
 兄には彼の弟の他にもう二人弟があった。やんちゃな弟も、わがままな弟も、少年と同じ年であるはずなのに、まだ幼さが勝ってもちもちと柔らかい。背も頭一つは違うし、声もこれからである。彼の弟とも、下の二人とも違う、伸び盛りの未発達でアンバランスなからだ。三人の弟を持つ兄は、いつか、少年に笑って言ったことがある。やはりこのように睦言の中でのことだ。
 私はきっと、君が上の子に追いついても、下の子たちに追いつかれても、こんなふうにはできなくなるだろうね。
 言った兄に、あなたのそういうところが、好きですよ、と少年は笑った。思えば少年がこの兄を本心から好きだといったのはあれきりだった。
「褒められるということは、私の答えは、全部が違わず当たっていたのだろうね」
 睦言の延長上で漏らされる溜め息に返されるのは肯定の笑みだ。残念だと笑みの形に引き延ばされる笑みは全てを含んでの笑みだった。
 あと数年もすればこのような睦言を交わすこともなくなるだろう。それは予想でなく予測だ。兄も少年もそうと知っている。駆け引きのような恋も、行為そのもののような愛も、すべて飛び越えてただ優しく肌を慈しむだけの睦言のような関係。そこにあるのは情と、憐れみと、あらゆる優しさと、ほんのわずか、けれど確かにある痛みだ。睦言の痛みは、やがて迎える死に似ている。
 兄は笑みを納めることなく少年の目尻を辿ると、こめかみから緩やかに生え際をなぞった。
「さて、ずいぶんと切りが良く終わったものだ。睦言も空が白むまで続けては野暮だね。夜が残っているうちに眠ってしまおうか」
 なぞる地肌に唇を落とすとそれが合図であったかのように瞼が閉じた。それを見届けて兄も瞼を塞ぐ。触れる肌のぬくもりが同化してゆくことが、いとおしく、さみしくあった。


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